刑罰(けいばつ、英: Penalty,独: Strafe)とは、形式的には、犯罪に対する法的効果として、国家によって犯罪をおかした者に科せられる一定の法益の剥奪をいい、その実質的意義は犯罪に対する国家的応報であるとともに、一般予防と特別予防をも目的とする[1] 。広い意味では犯罪行為に科されるもの[2]。刑ないしは刑事罰ともいう。
刑罰権とは、犯罪者を処罰できる権能であり、通常は犯罪者を処罰できる国家の権限をいう。刑罰権には、一般的刑罰権と個別的刑罰権がある。
一般的刑罰権とは犯罪が存在した場合に(通常は国家が)その犯罪を処罰する権能をいい、個別的刑罰権(刑罰請求権)とは具体的な犯罪に対して犯罪を行ったものを処罰できることをいう。
個別的刑罰権において、実際に刑罰を物理的に科すことができるためには、手続き(犯人をつかまえ、裁判を行い、それが確定すること)が必要である。そのため、個別的刑罰権を未確定な段階での観念的刑罰権(裁判における刑罰の適用)と、確定的な刑罰権たる現実的刑罰権(死刑、懲役など確定した刑罰の執行)に分けることができる。
刑罰はその剥奪する法益の種類によって、生命刑、身体刑、自由刑、追放刑、名誉刑、財産刑などに分類できる。かつては死刑と身体刑、追放刑が主なものだったが、人権の確立を主張した市民革命を経た近代社会では残虐とみなされる身体刑はほぼ廃止され、社会の身分制もほぼ消滅しているため対象とともに名誉刑もなくなりつつある。死刑も制限を経て廃止する国が増え、近代の刑罰は自由刑と財産刑が中心である。
生命を奪う罰で、方法は死刑のことである。苦痛を与える残虐な方法として凌遅刑がある。
身体に苦痛を与え、傷つけ棄損する罰で、杖刑、笞刑、入れ墨をする黥刑、身体の一部を切り落とす肉刑・宮刑などがある。
身体の自由を奪う罰で、懲役、禁錮と拘留がある。江戸時代には自宅への「押し込め」・「閉門」・「蟄居」あるいは「手鎖」などという様々な方法があった。広義では次の追放刑も含まれる。
財産(財物・金銭)を奪う罰で、罰金、科料と没収がある。没収は近代では犯罪により得た利益や犯罪の道具を公収することであるが、過去には江戸時代の闕所のように生命刑・追放刑と併せて不動産を含む財物が公収されることであった。日本の現行刑法においては過料と反則金は行政罰として刑罰とは区別されているが、江戸時代においては過料は金銭を奪う刑罰名であった。
名誉・身分を剥奪する罰で、身分制社会では爵位の剥奪・奴隷などの下層身分へ落とすことが行われ、身分刑ともいう。日本では江戸時代に非人手下があり、また、旧刑法では31条「公権剥奪」がこれに当たるとされる。この公権には選挙権・被選挙権が含まれ、新刑法ではなく公職選挙法に含まれる公民権剥奪・停止を名誉刑に分類する場合がある。
刑罰をめぐる問題としては、罪刑法定主義の問題や残虐刑の禁止などがあげられるが、近年問題になっているのは厳罰化とよばれる問題についてである。
犯罪が増加した場合、または抑止効果を狙って、死刑の適用、懲役・禁錮の年数増加など刑を重くすること(厳罰化)が行われることがある。 つまり、ルールを破った者、罪を犯した者への対応として、教育することと、処罰を加えることのバランスにおいて、後者により重きを置くのである。
厳罰化は立法による場合(法定刑の引き上げ)、行政による場合(求刑の引き上げ)、司法による場合(量刑の引き上げ)によってなされる。厳罰化には、犯罪に対するより厳格な報復を望む被害者・遺族および世論の要望に応える目的や、社会感情を鎮めること、社会秩序の維持、国家や警察・検察機関の体面の維持などが挙げられる、さまざまな社会的要因が関係する。
などが挙げられる。
などが挙げられる。
厳罰化には以上に列挙したように、長所だけでなくさまざまな短所・弊害をもつ。
過剰な厳罰化は、凶悪犯罪を増やすとの意見もある。精神的・生活的に追い詰められた人間は、「死刑になるのであれば、思いっきりやってしまえ!」「1人殺して死刑になるなら、もっと多く殺しても同罪だろう」「自首しても死刑になるなら、逃げ切ればいい」という安易な思考をして、隠微、より重大な犯罪に発展するいう発想である。中国では、窃盗罪の刑罰に死刑を設けたため、かえって事件を隠蔽するため「窃盗の目撃者」を殺害してしまう事例がみられるとの指摘がある。
また、突発的な犯罪を犯した際に、厳罰化の社会では「逃走」を選択させる事も少なくない。そして、それは「逃走時の犯罪」を誘引することになる。たとえば、日本において、交通事故を起こした運転者が危険運転致死傷罪による厳罰を恐れたためにひき逃げや「飲み直し」による飲酒運転の証拠隠滅が増加したという指摘がある。
厳罰化が進むと、無意識化の内に「心理的な脅迫」を受け続ける状態になる。この心理的脅迫は、何気ない日常を送っている間には、ほとんど気付くことはない。しかし、何不自由ない日常から一転、突如ストレスを受ける事態になり、周囲に助けてくれる人間がいなかった場合などに、これらの「無意識の脅迫」は我々を襲うことになる。
このため、犯罪抑止のためには、単純に厳罰化を推し進めるだけでは、不十分であって、追い詰められた人間が犯罪に走る前に、未然に救済する法律・組織などが必要であるという指摘がなされる。また、犯罪者の自首・反省を促し、犯罪を犯した人間を再教育し、更生を助ける社会を築かなければならないだろうとする指摘もある。
最近の日本の状況も厳罰化傾向にあると指摘される。少年犯罪や凶悪犯罪(殺人・強姦など)、悪質交通事故に対する厳罰化(2001年少年法改正、2004年刑法改正、2001年危険運転致死傷罪新設)が根拠として挙げられる。しかし、警察白書などの犯罪統計によれば、日本では少年犯罪や凶悪犯罪は統計上は減少傾向にある。
犯罪報道の過熱化と厳罰化とは密接な関係が指摘されている。1995年のオウム真理教事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件を発端にして、ワイドショー番組でも盛んに事件報道が行われるようになった。
ワイドショーで視聴率の取りやすい報道は、あからさまに恐怖を煽ったり、犯人の残虐性を強調したり、被害者の悲しみや怒りを情緒的に伝える報道であり、報道番組の事実解明重視型の報道とは大きく異なるものとなった。このことにより、データとはかけ離れた感覚での社会不安が高まった(モラル・パニック、体感治安の悪化)。モラルパニックでなくても刑法を、シンガポールのような厳しいレベルの内容へ改正し、また、少年法を廃止し、少年の犯罪者を成年と同様の条件で裁くことを主張する識者(犯罪心理学者に多いとされる)の存在も指摘される。これは、報道機関が、警視庁記者クラブでの報道の優位性を確保したいために、警察発表が一方的に行われることとの関連も指摘されている。
厳罰化は刑務所の過剰収容につながり、犯罪者の更生を困難にするという批判もある。生活困窮者の場合、一般社会で生活するよりも衣食住が保障される刑務所で生活した方が楽と感じる場合があり、長引く不況による経済犯罪の増加も過剰収容の原因と言われている。万引きなどの軽犯罪に関しては罰金刑の導入などの軽罰化が行われているのもこのためであるが、罰金刑でも、フィンランドのように年収の多少により金額が上下するように罰金を科すべきという、罰金刑の枠内における厳罰化要求の声がある。